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Typhoon
  
台 風 避 難  
 若い頃、チャーターヨットを行う事業に参加していたことがあり、L.O.A.96feet (73.4ton) のイギリス製ガフリグケッチの帆船に乗っていたが、日本でチャーターヨットに最適なフィールドと言えば沖縄になる。私自身、春と秋の3か月間を3年に亘り沖縄の海で過ごしたことになるが、ご存じの様に沖縄は、フィリピン海を北上してきた台風が沖縄周辺で進路を東に向ける転向点となる海域で、且つ勢力もピークとなる頃である。
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 さすがに航行中の洋上で台風に出くわしたことは無いが、沖縄本島南東部の 中城湾馬天港 と本部半島北側の 羽地内海 で二度、ともに双錨泊で台風をやり過した。また、二度ともに台風の目に入り、青空が見えた。特に記憶が残るのが羽地内海の方で、沖縄本島を南西側から北東に抜けた台風であった。

 その当時の私は若く、物事に頓着せず、且つプロとしての自負もあり、一つの台風も一つの凪と同じで、どちらも淡々と相対するべきものと思っていたので、強烈な台風だといっても記憶にあるのみで、記録は一切していない。今となってみれば残念に思うが..

 双錨泊 についてだが、その船には大きなCQRアンカーとデッキには非常用の巨大なストックアンカーがラッシングされていて、双方を使用することになる。アンカーチェーンがバウのチェーンロッカーに収納されているが、4シャックルが2本となる。即ち100mのチェーンが付いたアンカーを船首から2本打てる。
※錨鎖(Anchor chain)は25mを単位として1シャックル、2シャックルと数えるが、1節、2節とも言う。

 台風による風速のピークを迎えたのが未明である。東寄りの風で、烈風の中にも強弱があり、強い時の風は爆音を発し唸りをあげる。その時船首が振れ始め船体は片側に傾き出す。一方のアンカーチェーンは緩みがなくなり張って張って太い一本の鉄の棒と化す。そのままの状態が暫く続く.. 数秒だと思うのだが、とても長く感じられる。そして、張っていたアンカーチェーンがまた緩み出し船首が元の方向に戻り、船の傾きも収まる。走錨が避けられた瞬間である。この繰り返しの数時間であった。

 アネロイド自記気圧計 がドックハウス内に取り付けてあり、円筒に巻いた紙にペンで気圧を自動で記録していたが、もちろん数字は覚えていないものの、ラジオの気象通報で取った天気図のとおり、台風の中心気圧に気圧計の数字も急降下し近づいて行ったのを記憶している。急激な下降であった。台風の目に入り青空が見え、その後吹き返しの西寄りの風が吹いてきて、今度は急激に気圧が上がり始めた。

 風速だが、船内にはハンド風速計が備えてあったが、極限の状態の中で、いちいち測定などは論外である。風速計等は軽風や順風で使用する類のものであろう。この沖縄の経験の前に同じ船で、江の島の旧東海汽船の岸壁に係留していて夜に春一番に遭遇したことがあるが、8人乗りのゾディアックのゴムボートが宙を舞い、16オンスのダクロンのファーラージブが破れ、その後短冊のように千切れて風下へ飛散した。
 翌朝、江の島の観測所に確認したところ瞬間で49mの風が吹いたそうだが、この江の島の時よりも羽路内海の方が更に凄まじい風だったのではないかと思っている。この時の様子は筆舌に尽くし難い。

 最後に.. この時走錨していたら、船は大破し、私の命もどうなっていたか分らないが、一つ幸いしたのが、羽地内海は浅く、波浪の浪の方の影響が少なかったからであろうと思います。何時かまたPANTA RHEIで訪れてみたい所です。
   
荒天準備と解除・その1  
 上記記載の台風避難の通過前と通過後について記載する。特に帆船ならではの荒天準備とその解除がある。

 常に気象通報をラジオで聞き天気図を作成するのが日課であると申したが、沖縄周辺に居るとマリアナ海域に熱低が発生したと分かればそれは黄色信号になる。台風になり、北上しだしたら赤信号である。こうなるといつどこへ避難するかということになる。
 
 この時は慶良間諸島の 座間味 で、チャーター船として試行錯誤していた時期であって、少ないがツアー客も受け入れていた。避難は予約をキャンセルする必要からぎりぎり延ばしていた様に思う。但し、避難が遅れれば大変な事態になりかねないので、いつ避難するかの頃合いは難しい。この辺は全てキャプテンの判断である。

 台風の来る前には普通、漁船等の小型船はスロープに上げロープでしっかり縛ったり、大型船は港の岸壁を離れ、錨域へ移動して錨を打ち台風を待つことになる。岸壁に着岸したままだと波浪による高波等で岸壁に船が打ち付けられたり、他船と衝突したり、沈没したり、最悪人命の問題にもなる。

 座間味では、フェリーが着岸する桟橋の反対側に常時係留していたので、岸壁を離れざるを得ないが、座間味島周辺には錨地として適当なところも無い。したがって避難港に指定されている 羽地内海 へ向かうことになるのである。

 既に南海上に台風があるので、座間味から55マイル先の避難地は北東の方向でほぼ真向いの風となり、セーリングは出来ずGM(125HP)のディーゼルエンジンで走ることになる。 "波しぶきが顔に当たると痛い" 数十年前のこんな小さなことを記憶していて、不思議なものである。その時は既に時化気味であったのである。凪であれば普通は5~6時間の航程だが、もう少し時間が掛かり結構きつい廻航だった様に記憶する。

 運天港 到着後、羽地内海に入るには本島と屋我地島の間の狭い水路を通らなければならないが、その狭いところに橋が架かっていて、そのままだとトップマストが当たり、水路を通れない。どうしたか.. トップマストを下すのである。
   
荒天準備と解除・その2  
 船は1927年建造で、前述の如くL.O.A.96feet (73.4ton) のイギリス製ガフリグケッチの木造縦帆船である。13feet前後のバウスピリットが船首から突き出ているので、実測長では110feet程度である。横帆船に比べて操船や操帆は容易ではあるが、エンジン以外、巨大なエリアを持つセールやアンカーチェーンを巻上げるウインチやウィンドラスも含め、全ての操作は人力である。

 一番人力として瞬発力を必要とされるのは、メインセールを上げる時で、ヤードのスロートとピークをそれぞれのウインチで上げるが、メインマストサイド右舷側のスロートを上げるウインチに2名、左舷側のピークを上げるウインチに2名、合計4名でメインセールを上げる。たかだか1~2分の作業であっても、渾身の力を振り絞り、途中で休むことなく一気呵成に上げ抜いていた。途中で止めると、急坂の途中から坂の上に向かって自転車を漕ぎ始めるようなものである。その後、このセールアップを何年も続けた結果、それぞれを1人で上げられるようにもなり、体力的に何ら欧米人と比べても劣るようなことは無くなったのである。

 アンカーチェーンの巻き上げも持久力を必要とする作業だと思う。この時の投錨は、左右100m強ずつ繰り出したが、その巻き上げに掛かった時間は数時間に及んだ。このように一部の作業や時化のときには圧倒的な体力を必要とするが、そこは気心が知れたご婦人である。ときには彼女から優しくねと語りかけてくれる時もあり、全て力任せというわけでもないのである。

 運天港に着岸し、先ずメインマストトップまで上がり、トップマスト下部のブロンズのストッパーを抜き、トップマストをデッキまで降ろし、そのまま直立の状態で、メインマストに抱き合わせるようにラッシングをした。これで橋は通過可能となる。

 尚、水路にある橋は、2010年12月18日に新しく架け替え開通し、海面からの高さは37.2メートルになったそうである。当該帆船はマストトップまで約30m強であるので、今なら悠々と通過できる。名は "ワルミ大橋" と言うそうだ。ワルミとは "割れ目" という意味らしい。

 無事水路を通過し、羽地内海に入り錨泊場所を決める。チェーンの巻き上げには時間が掛かるが、デッキ上のストックアンカーのラッシングを解き、船首にセット出来ればあとの投錨は容易だ。但し、最強風速の時に係駐力が最大になるよう左右双方の錨鎖が同時に効いてくれれば良いのだが、台風の風向きを予測するのも難しいが、錨の打ち方も難しい。この時は理想的な打ち方は出来なかったものの何とか持ちこたえてくれた。最強風速のときに効いていたのは、右舷側のCQRアンカーの方であった。

 投錨が済めばあとはメイン・ミズン・カッター・ファーラージブ等のセールやその他あらゆるものをラッシングし、飛びそうなものについては船内に収める。普段は船尾から流しているゾディアックのボートも船外機を外し、逆さまにしてデッキ上に縛り上げた。これで一応荒天準備が完了する。早朝に座間味を出港し、ここまでの作業はその日の夕方までには完了していたと記憶する。少し曖昧だが.. 間違いないと思う。

 追記 記憶がハッキリした部分と曖昧な部分が交差しており、WEBにアップした後よくよく考えて見ると、その日のうちに荒天準備を済ませるのは、各々の作業内容からして時間的に厳しいものがあり、廻航当日は、運天港の岸壁で一夜を過ごし、翌日に荒天準備をしたと考えるのが自然である。訂正する。

 ウィンドラスに関して追記 なにしろ半世紀近く経過しているので、どうも記憶が覚束無い.. 良く考えればアンカーチェーンを巻上げるウィンドラスは電動で使用出来た。それが普通である。但し、羽地内海で左舷側のストックアンカーをチェーン4節と共に先に巻上げた時はウィンドラスにハンドルを差し込み手動で巻き上げたのである。それは間違いない。体が覚えている。どうゆう理由だったかは今となってしまえば不明である。
   
荒天準備と解除・その3  
荒天準備が完了した。やらなければならないことは全て行ったので、ラジオの気象通報で天気図を取ったり、ワッチなどをする以外、あとは台風を待つだけである。皆淡々としたものであった。この時を含め数年にわたって、こうした状況下を幾度かまぁ経験し乗り越えたが、事後、感嘆の声をあげるようなことは皆一切なかった。当然である。プロにとっては、凪も時化も日常なのである。その昔は、我々は皆 "クール" だったとでも言っておこう..

 荒天準備の後、台風に直撃されたのが、座間味出航から3日目だったか4日目だったか記憶は飛んでしまっている。当該海域は、台風が北東に進路を変える転向点に当たり、転向前に速度を落とし停滞してしまうことも多々あるので、もしかしたら、もう少し後だったかもしれない。待つ間は、雑誌などを手に取り、読むでもなく見るでもなく瞑想に耽っている様な感じだったかもしれない。こうして無為に過ごした時間は、鮮明な記憶としては残らないものらしい。

 東寄りの風が徐々に強まり、アンカーチェーンも強い張りと緩みを繰り返している。良く効いている。空から聞こえる轟風が徐々に大きく響いてくる。いよいよその時である。アネロイド自記気圧計の数字が急激に下がり始めた。

 当該帆船の北側に我が座間味村のフェリー "座間味丸" も私の知らぬ間に避難投錨をしていた。あと数隻、離島フェリーらしい船影を確認できた。現在の座間味丸Ⅲは699ton、当時も恐らく500ton以上はあったと思う。台風最接近時、ブリッジには薄明かりが灯り、総員体制だったのであろう。メインエンジンは恐らく適宜使用していたと想像する。当該帆船にもエンジンはあるが、もし、走錨して流され始めたらエンジンを使用したとしても船首を風上に立てることすら出来ないだろう。こちらは走錨したらそのまま成り行きに任せるしかないのである。

 座間味丸のブリッジからは、当該帆船が暗闇の中にも見えていたと思う。すくなくとも走錨し、大破したら、その一部始終は見届けてくれたことと思う。幸運にもそうはならなっかった。事後、座間味丸の機関長だったと思うが、 "小っちゃな船でよくぞあの台風を凌いだものだ" と、座間味弁でお褒めのお言葉を頂戴した。当該帆船に乗船している我々以上に座間味丸のブリッジからこちらを見ていると冷や冷やものだったのかもしれない。

 朝方台風の目が通過し、青空が見えた後に吹き返しの風が吹始め、また空を雲が覆って、強風模様になった。怖いのが双錨泊をしているので、船が逆方向に向きを変えるときに、チェーンが交差したりして、係駐力が極端に落ちることである。幸いにも陸からの風になったので、波は抑えられ、風も50mとかそういう強さにはならなかったと思う。こうしてその台風の最強時を凌いだのである。

 台風が過ぎ去っても海はうねりと西寄りの風が強く2~3日は時化状態が続くので、即座間味には戻れないが、ただ風は落ちてきているので、左舷側のストックアンカーをチェーン4節と共に先に巻上げて、もとのブルワーク沿いにラッシングをし、CQRの方は2節くらいは巻上げた。各所のラッシングは解き、船内に収納したものはデッキに再セットした。

 日が変わり、CQRアンカーを全て巻上げて水路を通過し、運天港に着岸し、下ろしたトップマストとジブファーラーもセットし直した。解除は完了である。この日まで座間味を出て少なくとも1週間くらいは経過しているはずである。その間大変な労力を要し、一仕事やり遂げたということである。

 台風も遠のき天候も回復し、座間味に向かう。

 記憶に残っている。伊江島と本部半島の間 を走っているときのことを。穏やかになった青々とうねる海を走っていて、ワッチが来るまでの小一時間、バウスピリットのネットに身を横たえていた。何も考えず船首の砕ける波を見ていたと思う。崇高なる無為..