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2022/4/16 |
宙を舞う巨大な謎の黒い尾びれ |
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今日は、インド洋と相模湾で出くわした珍しい生物との遭遇体験について..
半世紀も前の若い頃に南緯10度付近のインド洋上で、巨大なオニイトマキエイと数百頭以上のイルカの大群に遭遇した事があるが、若い私にとって、それは息を弾ませ、胸が高鳴り、心躍る神秘的体験であった。
その当時の話を、あるヨットオナーにしたことがある。オニイトマキエイについては、本当は八畳敷位、もしかして更に大きかったかもしれないが、抑え気味に六畳位の大きさと話し、群れ踊るイルカは事実のまま、数百頭の群れが一斉にジャンプしながら早朝の海を同方向に泳ぎ去って行ったと話をしたが、そのオナー曰く
"いくらなんでも誇張し過ぎ" とバッサリと切り捨てられたことがある。その常識人である方に更に気色ばんで体験談を続けたところで理解し難いだろうと思い、それ以上話はしなかった。それ以来その方は私を、大袈裟な事を言う誇張野郎とでも思っておられるかもしれませんね..今でも。
ネットの Wikipedia によるとオニイトマキエイは最大で横幅8m・体重3tになるそうであるので、八畳敷よりも更に大きい。また、インド洋にもいるサラワクイルカという種は100頭から1000頭程度の群を成して、海面をかすめるようにジャンプしながら高速で移動するとの記載がある。その当時 Wikipedia
でもあればその方も信じてくれたかもしれないが、巨大なエイや数百頭の群れるイルカがいるなど想像がつかないのも当たり前の話である。
私は、メルビヴィルの "白鯨" を何度か読み返している。その文学的評価については文芸評論家や文学研究者の先生にお任せするとして、私は彼が描いた茫々として神秘的な海を理解できる。もとより言葉にし難いところの海を、あえて言葉で表現するとすれば、神秘的な表現にならざるを得ないのではないだろうか。
エイハブ船長以下乗組員は、アメリカ東海岸のナンターケットを出港し、大西洋を南下して喜望峰からインド洋に入り、マレーの海賊待ち受けるスンダ海峡を通過し、ジャワ海から南シナ海を経てバシー海峡を抜ける。目指す太平洋に入り、その日本列島沖で台風に遭い、セントエルモの火に取り巻かれる。そしてモビーディックを追い運命の海域に至るのである。極寒の海から熱帯の海へ、静謐の海から怒涛逆巻く海へ、そして実際にも大航海者であったメルビヴィルと共にあたかも私も一緒にピークオッド号で航海をしているような錯覚にとらわれるのである。
まぁこれ以上の話は置いておくとして、先ほどのイルカの話だが、この白鯨にも群れるイルカらしき描写があるが、約一世紀後に私もメルビヴィルと同じ体験をした事になるが、何れにしても私は若い時にめったに見れないもの見た様である。
以上はインド洋上での神秘的体験だが、私には理解し難い生き物に関しての不思議な別の遭遇体験もあって、長年に亘り気がかりな謎であった。
「あの宙を舞う巨大な謎の黒い尾びれを持つ生物の正体とは?」..
それは相模湾で、曇天の下、小網代から江の島の湘南港へ向かって、ガフリグ・ケッチで帆走をしていた時の事である。江の島の手前には幾つか定置網があるが、その中の一つに接近した時に、その網の向こう側に突如として、巨大で真っ黒な尾びれと思われるものが海面から突出し、宙を舞い、そして海面を叩き、飛沫を上げたのである..
その尾びれはあまりにも大きく本来であれば鯨の大きさであるが、ただ尾はサメの形状である。そこまでは一瞬で理解できたが.. 私が実際に見て触って知っているブルーシャークやメジロザメ、ヨシキリザメと比べても色や大きさは全然違う。ここで完全に思考停止である。船には他に何人かのクルーがいたが目にしたのは私だけ、話をしても理解し難いだろうと思い、このことに関しては口を閉ざしたままで、半世紀が経過して現在に至るのである。
10年位前だったろうか.. 現在は、ネットがあるので、テレビは見切りをつけて処分してしまい家には無いが、まだその当時は設置してあった。いつもの様に見るでもなく聞くでもなくテレビを点けていた時だと思うが、丁度TBSの番組の中で、相模湾の海底に設置したカメラに巨大なメガマウスザメが映し出されたのを見て、即座にあの時の尾びれの正体はこれだ.. 目から鱗であり、凡そ数十年に亘る謎が解けた瞬間でもある。それはとてつもない稀有な出来事に巡り合ったと言えるが、ただ、解けてしまえば
なんだ~ メガマウス.. 謎は謎のままの方が良かったのかもしれない。
いつも深海にいるメガマウスが海面に何故浮上してきたか私には知る由もないが、海に出たら良く目を凝らして舷側から海面下を覗いてみてはいかがでしょうか?
キールの下に遊弋しているメガマウスの黒い影が見えるかもしれませんね..
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2022/4/13 |
夏をはらんだ心地よき風 |
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最近、時間が空き易い水曜日に船へ行くことが多い。今日は、漏水する部分へオーニングを掛けに出かけた。花祭の日が過ぎたと思ったら夏日である。シーブリーズは既に夏をはらんでいた。
今日の船 |
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2022/4/8 |
今日は花祭りの日 |
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お釈迦さまは母親の右脇から蓮の葉の上に生まれ落ち、直ぐに右手で天を、左手で大地を示し ”天上天下唯我独尊” とおしゃったそうです。その生まれた日が今日です。3月の啓蟄の頃になると冬ごもりの虫たちが地中から出てくるように、4月の花祭りの頃には同じく冬ごもりをしていたヨットマンがハーバーに出て来るようになります。そんな季節を迎えました。
補修の件であるが、限定沿海程度の海域であれば航行に支障は無いので、大がかりな補修を行うかどうかの判断は先送りし、荒天時や外洋への運航は避けるもののディセーリング等は行うことにします。以上..
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2022/1/3 |
新年を迎えたハーバー |
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元旦に近所の神明社で海の安全を祈願しお受けしたお札を、船内にある昨年のものと交換した。大がかりな補修の必要性から、私が願う外洋への航海は、まだまだ先になりそうだが、取り敢えず一歩ずつ。
今日のハーバーと船 |
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2021/12/26 |
荒天準備と解除・その3(台風避難) |
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荒天準備が完了した。やらなければならないことは全て行ったので、ラジオの気象通報で天気図を取ったり、ワッチなどをする以外、あとは台風を待つだけである。皆淡々としたものであった。この時を含め数年にわたって、こうした状況下を幾度かまぁ経験し乗り越えたが、事後、感嘆の声をあげるようなことは皆一切なかった。当然である。プロにとっては、凪も時化も日常なのである。その昔は、我々は皆
"クール" だったとでも言っておこう..
荒天準備の後、台風に直撃されたのが、座間味出航から3日目だったか4日目だったか記憶は飛んでしまっている。当該海域は、台風が北東に進路を変える転向点に当たり、転向前に速度を落とし停滞してしまうことも多々あるので、もしかしたら、もう少し後だったかもしれない。待つ間は、雑誌などを手に取り、読むでもなく見るでもなく瞑想に耽っている様な感じだったかもしれない。こうして無為に過ごした時間は、鮮明な記憶としては残らないものらしい。
東寄りの風が徐々に強まり、アンカーチェーンも強い張りと緩みを繰り返している。良く効いている。空から聞こえる轟風が徐々に大きく響いてくる。いよいよその時である。アネロイド自記気圧計の数字が急激に下がり始めた。
通過時の様子 "昔沖縄での台風避難経験"
当該帆船の北側に我が座間味村のフェリー "座間味丸" も私の知らぬ間に避難投錨をしていた。あと数隻、離島フェリーらしい船影を確認できた。現在の座間味丸Ⅲは699ton、当時も恐らく500ton以上はあったと思う。台風最接近時、ブリッジには薄明かりが灯り、総員体制だったのであろう。メインエンジンは恐らく適宜使用していたと想像する。当該帆船にもエンジンはあるが、もし、走錨して流され始めたらエンジンを使用したとしても船首を風上に立てることすら出来ないだろう。こちらは走錨したらそのまま成り行きに任せるしかないのである。
座間味丸のブリッジからは、当該帆船が暗闇の中にも見えていたと思う。すくなくとも走錨し、大破したら、その一部始終は見届けてくれたことと思う。幸運にもそうはならなっかった。事後、座間味丸の機関長だったと思うが、 "小っちゃな船でよくぞあの台風を凌いだものだ" と、座間味弁でお褒めのお言葉を頂戴した。当該帆船に乗船している我々以上に座間味丸のブリッジからこちらを見ていると冷や冷やものだったのかもしれない。
朝方台風の目が通過し、青空が見えた後に吹き返しの風が吹始め、また空を雲が覆って、強風模様になった。怖いのが双錨泊をしているので、船が逆方向に向きを変えるときに、チェーンが交差したりして、係駐力が極端に落ちることである。幸いにも陸からの風になったので、波は抑えられ、風も50mとかそういう強さにはならなかったと思う。こうしてその台風の最強時を凌いだのである。
台風が過ぎ去っても海はうねりと西寄りの風が強く2~3日は時化状態が続くので、即座間味には戻れないが、ただ風は落ちてきているので、左舷側のストックアンカーをチェーン4節と共に先に巻上げて、もとのブルワーク沿いにラッシングをし、CQRの方は2節くらいは巻上げた。各所のラッシングは解き、船内に収納したものはデッキに再セットした。
日が変わり、CQRアンカーを全て巻上げて水路を通過し、運天港に着岸し、下ろしたトップマストとジブファーラーもセットし直した。解除は完了である。この日まで座間味を出て少なくとも1週間くらいは経過しているはずである。その間大変な労力を要し、一仕事やり遂げたということである。
台風も遠のき天候も回復し、座間味に向かう。
記憶に残っている。伊江島と本部半島の間を走っているときのことを。穏やかになった青々とうねる海を走っていて、ワッチが来るまでの小一時間、バウスピリットのネットに身を横たえていた。何も考えず船首の砕ける波を見ていたと思う。崇高なる無為..
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2021/12/24 |
荒天準備と解除・その2(台風避難) |
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船は1927年建造で、LOA.96feet(73.4ton)のイギリス製ガフリグケッチの木造縦帆船である。13feet前後のバウスピリットが船首から突き出ているので、実測長では110feet程度である。横帆船に比べて操船や操帆は容易ではあるが、エンジン以外、巨大なエリアを持つセールやアンカーチェーンを巻上げるウインチやウィンドラスも含め、全ての操作は人力である。
一番人力として瞬発力を必要とされるのは、メインセールを上げる時で、ヤードのスロートとピークをそれぞれのウインチで上げるが、メインマストサイド右舷側のスロートを上げるウインチに2名、左舷側のピークを上げるウインチに2名、合計4名でメインセールを上げる。たかだか1~2分の作業であっても、渾身の力を振り絞り、途中で休むことなく一気呵成に上げ抜いていた。途中で止めると、急坂の途中から坂の上に向かって自転車を漕ぎ始めるようなものである。その後、このセールアップを何年も続けた結果、それぞれを1人で上げられるようにもなり、体力的に何ら欧米人と比べても劣るようなことは無くなったのである。
アンカーチェーンの巻き上げも持久力を必要とする作業だと思う。この時の投錨は、左右100m強ずつ繰り出したが、その巻き上げに掛かった時間は数時間に及んだ。このように一部の作業や時化のときには圧倒的な体力を必要とするが、そこは気心が知れたご婦人である。ときには彼女から優しくねと語りかけてくれる時もあり、全て力任せというわけでもないのである。
運天港に着岸し、先ずメインマストトップまで上がり、トップマスト下部のブロンズのストッパーを抜き、トップマストをデッキまで降ろし、そのまま直立の状態で、メインマストに抱き合わせるようにラッシングをした。これで橋は通過可能となる。
尚、水路にある橋は、2010年12月18日に新しく架け替え開通し、海面からの高さは37.2メートルになったそうである。当該帆船はマストトップまで約30m強であるので、今なら悠々と通過できる。名は
"ワルミ大橋" と言うそうだ。ワルミとは "割れ目" という意味らしい。
無事水路を通過し、羽地内海に入り錨泊場所を決める。チェーンの巻き上げには時間が掛かるが、デッキ上のストックアンカーのラッシングを解き、船首にセット出来ればあとの投錨は容易だ。但し、最強風速の時に係駐力が最大になるよう左右双方の錨鎖が同時に効いてくれれば良いのだが、台風の風向きを予測するのも難しいが、錨の打ち方も難しい。この時は理想的な打ち方は出来なかったものの何とか持ちこたえてくれた。最強風速のときに効いていたのは、右舷側のCQRアンカーの方であった。
投錨が済めばあとはメイン・ミズン・カッター・ファーラージブ等のセールやその他あらゆるものをラッシングし、飛びそうなものについては船内に収める。普段は船尾から流しているゾディアックのボートも船外機を外し、逆さまにしてデッキ上に縛り上げた。これで一応荒天準備が完了する。早朝に座間味を出港し、ここまでの作業はその日の夕方までには完了していたと記憶する。少し曖昧だが..
間違いないと思う。
追記 記憶がハッキリした部分と曖昧な部分が交差しており、WEBにアップした後よくよく考えて見ると、その日のうちに荒天準備を済ませるのは、各々の作業内容からして時間的に厳しいものがあり、廻航当日は、運天港の岸壁で一夜を過ごし、翌日に荒天準備をしたと考えるのが自然である。訂正する。
ウィンドラスに関して追記 なにしろ半世紀近く経過しているので、どうも記憶が覚束無い.. 良く考えればアンカーチェーンを巻上げるウィンドラスは電動で使用出来た。それが普通である。但し、羽地内海で左舷側のストックアンカーをチェーン4節と共に先に巻上げた時はウィンドラスにハンドルを差し込み手動で巻き上げたのである。それは間違いない。体が覚えている。どうゆう理由だったかは今となってしまえば不明である。(2022.1.11)
荒天準備と解除・その3に続く.. |
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2021/12/22 |
トップマストを下ろす方法 |
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トップマストの下ろし方とそれに関連して、沖縄時代の前について記載しておく。帆船がマイク・マクミラン船長の下、イギリスから日本に廻航され、日本人に引き渡された後、横須賀長浦港を母港に江の島辺りで活動していた時代の話である。
江の島で夜間春一番に遭い瞬間で49mの風が吹いて、メインマストトップからバウスピリット間にファーラーされているジブセールの巻がほどけて風をはらみ、間もなくボンという炸裂音とともに16オンスのダクロンセールが破れ、その後短冊のように千切れて風下へ飛散したが、その時の負荷でトップマスト下部に亀裂が入ったのだと思うが、数日後に江の島沖でセーリングをした際、突然デスマストし、トップマストの上3分の2位が海面へ落下した。
この時乗船していた南アフリカから帆船の指導に来ていた英国系だと思うがその白人が、デスマストの弾みで落水したのをお覚えている。数日前夜間の春一番による100マイルの風を、彼はまるでアメリカ大陸最南端のホーン岬を通過している時の様だったと語っていた。落水したり、100マイルの風が吹いたり、南アフリカからはるばると極東の島国に来て、食事も合わず、我々クルーとコミュニケーションもろくに取れずに帰国した彼は、存命であれば相当な高齢だと思うが、彼に対してはその当時何もしてあげらえずに申し訳ないと言うか、切ないと言うか、四十数年が経って今では名も忘れてしまっても、心に何故か残っている。
その後、船長格でドイツ人のハーマンとクルーでオーストラリア人のマイクも指導目的で日本を訪れていて、寒冷前線が通過した夜間の駿河湾で、並行して走る500トン型の内航船が波で見え隠れする時化の海を一緒に走ったりもした。結局、3人の欧米人が指導と称して乗船してくれて、学ぶところも多かったと思うが、結局は、我々日本人の才覚を持ってして、波浪逆巻く日本の海でも、支障なくその帆船を運用できるようになるのである。
その折れたトップマストだが、長浦港へ戻って捕鯨母船日新丸に帆船を横付け係留をしていた時だが、補修するにも、残った3分の1を下ろさなければならない。その時まで上に抜くものだと思っていて、深田サルベージのクレーン船の手配も考えていたが、抜くにしてもどこにワイヤーを掛けるか、外さなければならないリギン等も把握しなければならず私がメインマストトップに上がり、チェックすることにした。
2時間近くメインマストトップにしがみ付いて分かったことは、上に抜くのではなく下に降ろすことだった。こう言うのを "目から鱗が落ちる"
というのであろう。その後、メインセールのヤードを上げるピークハリヤードとスロートハリヤードのうち後者を使用すればマストは下ろせることが分かり、どこにどのようにハリヤードを通すかも判明し、一度トップマストを数ミリ程度上げて、トップマスト下部に落下防止用にマスト側面に貫通しているブロンズの重いストッパーを抜けばあとは徐々に下ろすだけのことである。
その後、久里浜の加藤ボートで補修を終えたトップマストを無事セットし直すこともできたのである。
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2021/12/21
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荒天準備と解除・その1(台風避難) |
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先ず12月16日午後、フィリピンに上陸した台風22号により、洪水や家屋の倒壊などで、多くの犠牲者が出ている様である。自然災害とは言え、痛ましい限りである。映像を見るとバラックなどが多く、豊かであれば救われた命もあるに違いないが。ご冥福をお祈りします。
台風の中心が通過した経験を9月11日に記載したが、今日は、その台風避難の通過前と通過後について記載する。特に帆船ならではの荒天準備とその解除がある。
常に気象通報をラジオで聞き天気図を作成するのが日課であると申したが、沖縄周辺に居るとマリアナ海域に熱低が発生したと分かればそれは黄色信号になる。台風になり、北上しだしたら赤信号である。こうなるといつどこへ避難するかということになる。
この時は慶良間諸島の座間味で、チャーター船として試行錯誤していた時期であって、少ないがツアー客も受け入れていた。避難は予約をキャンセルする必要からぎりぎり延ばしていた様に思う。但し、避難が遅れれば大変な事態になりかねないので、いつ避難するかの頃合いは難しい。この辺は全てキャプテンの判断である。
台風の来る前には普通、漁船等の小型船はスロープに上げロープでしっかり縛ったり、大型船は港の岸壁を離れ、錨域へ移動して錨を打ち台風を待つことになる。岸壁に着岸したままだと波浪による高波等で岸壁に船が打ち付けられたり、他船と衝突したり、沈没したり、最悪人命の問題にもなる。
座間味では、フェリーが着岸する桟橋の反対側に常時係留していたので、岸壁を離れざるを得ないが、座間味島周辺には錨地として適当なところも無い。したがって避難港に指定されている羽地内海へ向かうことになるのである。
既に南海上に台風があるので、座間味から55マイル先の避難地は北東の方向でほぼ真向いの風となり、セーリングは出来ずGM(125HP)のディーゼルエンジンで走ることになる。
"波しぶきが顔に当たると痛い" 数十年前のこんな小さなことを記憶していて、不思議なものである。その時は既に時化気味であったのである。凪であれば普通は5~6時間の航程だが、もう少し時間が掛かり結構きつい廻航だった様に記憶する。
運天港到着後、羽地内海に入るには本島と屋我地島の間の狭い水路を通らなければならないが、その狭いところに橋が架かっていて、そのままだとトップマストが当たり、水路を通れない。どうしたか..
トップマストを下すのである。
荒天準備と解除・その2に続く..
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