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Info9
  2025/4/13 ふじの山
   前日の12日、メンテで 安良里 に行ったが、その内容がHPから消えてしまった。このHPは自宅と事務所のPCで作製していて、双方のアップロードの手違いで消えものと思う。明日、修復可能か会社のPCを覗いてみるが、回復出来ない場合には、このままにしておく。(2025.5.11
     
  2025/3/29  Marlinspike Seamanship
   私も齢を経て「晴耕雨読」的な過ごし方がやっと無理なく受け入れることができるようになったみたいだ。朝から冬寒の雨で、船に付いて、今日は考え続けていたので、同日に二度の投稿をすることにする。

 「帆船は人間の創造物の中で、もっとも美しく偉大な傑作の一つだ」と賞賛したビクトル・ユゴー、その小説「海の労働者」や「93年」において、彼自身の海に対する憧憬を如実に表しているとされている。

 因みに彼の作品「レ・ミゼラブル」を、私は数度読み返し、甥や姪の為にパンの端くれを盗んだ罪でバスティーユ監獄に19年間ものあいだ投獄されたジャンバルジャンの数奇な生涯に涙もした。確か、投獄される前の職業は槙皮(まいはだ)作りの職人との設定であったように記憶する。槙皮は木造帆船にとって必要不可欠な防水対策用の詰め物である。その時代は帆船の時代であった。

 15世紀から始まる大航海時代、そして、19世紀のクリッパー・シップで終わる帆船の歴史は、欧米の歴史であり、日本の歴史ではない。現在、Marlinspike Seamanship(マリーンスパイキ シーマンシップ)という考えがあるが、帆船に欠かせない製帆法や結索法はクリッパー・シップのデッキで完成され、まとめ上げられた技術であり、同時に、帆船時代の船乗りに対する畏敬の念であると私は思っている。

 今般、日本で使っている帆走・艤装品用語や舫結び等の結索にしろ帆船時代の名残りでないものはない。
     
  2025/3/29 ダーウィンとメルビル
   138億年前のビックバンによりこの宇宙が誕生し、星々が生成消滅を繰り返し、やがて銀河系宇宙ができる。その中の地球は、太陽との距離がほど良く、やがて海ができ、その海に生命が誕生する。やがて進化した生物が陸にまで進出するようになる。それら生物は、常に環境に適応するように変化し続ける。乱暴に言うとそれがダーウインの進化論であると思っている。だが一つ、ダーウインの説明に抜け落ちているものがある。それは、ビックバンの高温高密度の状態から、今、私がこう考えているこの意識が、人類にどのように宿ったかが..?

 ダーウインは、若きフィッツロイ艦長率いる軍艦「ビーグル号」の2度目の航海に若い博物学者として参加。1831年から1836年の5年間かけて世界一周しているが、彼は、その帆船での海上生活をこきおろしてもいたようだ。「大多数の船乗りでさえ、ほとんど海そのものを本当に好んでいない。もしも生活上の必要からやむを得ず船に乗っているのでなければ、非常に若い頃には栄光への幻想から、年老いては習慣の力のみが、彼らを海にひきつけている唯一の理由なのだ..」

 航海中の船長との確執や、繰返し起きる船酔いがそうさせたのかもしれないが、小説「白鯨」の主人公イシュメルに海に出ることの喜びを言わしめているメルビルとは違い、波や風や、潮騒やうねりを愛することができなかったようである。おそらくメルビルのような形而上的感性は持ち合わせていなかったのではないだろうか。(私の勝手な見方..)
     
  2025/3/1 今日の私は虫
   暖かさに誘われ、安良里 に行って今、帰って来た。今日は模型ではない本物の船の方である。山桜はまだ早いが、この海の昼間は春本番である。ただ、駿河湾越に見ゆる冠雪残る南アルプスの山々は、まだ、荒々しい冬の装いで、"昼間だけヨットマン" にとっては春だが、夜通しで動く漁師や船員にとって海はまだまだ冬のそのものなのである。

 この海に来て1年になるが、昨年3月末の横浜からの 廻航 では、未明の神子元沖は厳しい冬であった。

 今年の二十四節季の「啓蟄」は3月5日だが、過日、このサイトに春になり土から出てくる虫の如く海に現れ、夜になると跡形もなく消え失せる虫同様のヨットマンが云々と記載したが、今日、その虫は私である。
     
  2025/1/19 船底塗装
   1月16日に船を上架し、船底塗装 を行った。
     
  2025/1/3 箱根駅伝
   正月を迎えると箱根駅伝となるが、私が住む住宅のバルコニーから国道1号線を行く選手諸君を往路・復路共に東海道線越しに見ることができ、選手が近づくと取材用ヘリの音が聞こえ、そろそろ選手が通過する頃だと知ることができる。その復路がまた今年もやって来て、今、topの青学が大手町に向け通過して行ったようだ。(私は沿道にも行かずバルコニーにも出ず)

 年々齢を重ねると共に、駅伝もだんだんと無関心の一つになりおおせた。つまらないのである。

 どの選手も一様に箱根駅伝的優等生らしい受け答えで、皆同じに見える。まさに没個性化で、財務真理教ならぬ箱根真理教である。H監督の指示通りに走らされる4年間を言われるがままに反発もなく送れば監督のお眼鏡に叶い駅伝のメンバーにも選出され、優勝もする。真理教脱退後は、社会が求める優等生らしく安定した企業に就職ができる。若くしてまさに皆大人である.. 
     
  2024/12/16 帆船模型
   私の好きな小説にメルビルの白鯨(モービデック)がある。かなり古いがグレゴリーペック主演で映画化もされている。映画のせいかモービデックに対する偏執狂的な エイハブ船長 の復讐劇と見る向きも多いと思うが、私には哲学的で、人間の存在の意味や運命、悠久の宇宙(海)を舞台に、感覚を超越した形而上の世界を描いていると思う。

 メルビル自身、捕鯨船や商船、アメリカ海軍の船(この時は脱走している)にも乗っていた。ホーン岬海流や風に逆らう西周りで、兄が所有する帆船に乗り、ホーン岬を大西洋側から太平洋へにも抜けていて、世界の海を航海した帆船乗りであった。

 そのメルビル描く海の描写は、私にも理解できる。日本沖では、恐らく台風に遭遇したのであろうと思うが、その時の描写など..筆舌に尽くし難いものを、敢えて筆で表すとすれば必然的にオカルティックにならざるを得ないのである。

 外洋を航海した事が無い、時化にあった事が無い、ましてや海に出たことも無い、経験はしたが残念ながら何も感じ取ることが出来ない方.. が読めば、"なんだこれ" と言ったことになるのは当たり前である。そういった方々は、悠久の海を知らず感じずして人生を終えられるが、私には何か片手落ち(差別用語だが敢えて使用)の人生のような気がする。

 小説の冒頭、主人公のイシュメルが海に出たくなる理由を述べているが、私が彼に変わって簡潔に言うとするとこういうことではないだろうか、"大自然(海/宇宙)の中に平安を得たい" が為であると.. 「崇高なる無為」

 さて主題の件だが、その捕鯨船に積まれている捕鯨ボートの模型を、現在作成中である。所謂帆船模型の中の一つである。作成状況はこちら
     
  2024/12/8 クリスマス
   今年も軽佻浮薄の時期到来となる12月に入ったが、まずクリスマスである。言わずもがなキリストの降誕祭である。敬虔なキリスト教徒にとっては重要且つ厳かな日であることは私も理解する。

 私が軽薄なクリスマスを意識したのは、死んだ人足稼業の親父が、その日、珍しく背広を着て出掛け、あの赤いクリスマス帽を被って帰って来た。キャバレーに行ったらしく、その親父がお馬鹿に見えたのを記憶する。その粗末なあばら家には親父が神棚を備え、新年を迎えれば近所の神明社から御札を授かり祀っていた。

 クリスマスが過ぎ紅白を見た後、曹洞宗大本山の永平寺の除夜の鐘を聞き、百八煩悩を除去する。そして日が変わり新年を迎えれば神道詣でで、一年の無病息災を願う。これが死んだ親父だけでなく一般の市井の徒が行っている新年までの流れである。

 私が若いころからクリスマスは既に巷に定着していたイベント事であり、昨今のハロウィーンやバレンタイン等と同列であろう。取り立てて反対する理由もないが、キリスト教・仏教・神道と続く年末からの流れは、宗教というものに関してはあまりにも無節操とも思うのだが..

 芥川龍之介が小説「河童」の中でこう言っている。
「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその習慣を少しも破らないよう暮らすことである」

 ただ、芥川のように社会通念(常識・習慣)のばかばかしさに気づいても敢えて表に出さず暮らす人間と、ばかばかしさにそもそも気付けない人間とは外見は同じだが、生まれて死ぬ一回性の人生、大きな違いがあるのではないだろうか。